故・高畑勲監督作品「かぐや姫の物語」が、如何に賞賛するほどの「高意識なパンクロック」であるか #後編

※ネタバレ注意
※長文注意

前編の記事投稿からはや2週間が経過し、6月となりました。
なぜ後編が投稿されるまでこんなに時間が経つのかというと
今から後編を考えるからです。

ドリフだったら雷様に扮した高木ブーさんが最後にベンチごとずっこけていますね。

 

 

 

 

 

 

 

前編のことなんかすっかり忘れてしまったわい! という方も
そうでない方もまずはこちらの前編を読んでから今回の後編を読んでみてほしい。

#前編

 

 

それでは始めます。

前回の記事では、
高畑勲監督作品「かぐや姫の物語」は、数ある映画の中でもひときわ輝く「最高峰の作品」と言いました。
そして何故それほどまでに最高峰なのかという点では「悟り」というキーワードに対して彼のその死生観をこの「かぐや姫の物語」で強烈なパンクロックとして表現されているからなのだと書きました。

どのように「悟り」というキーワードに対してパンクロックかという説明だが、
まずは「悟り」というものが一般的にどう認識されているかを確かめたい。


【Spicomi】悟りの意味とは?悟りを開いた人の特徴8つと開く方法10つ

 

だそうだ。

皆さん上記の記事を読んでみてどうだっただろうか。
僕は率直にこう思いました。


「悟りを開いてしまったら、人間ではなくなってしまうのではないだろうか」

 

成長すること、進化すること、真理を悟ること、
お坊さんとか、僧侶のような、仏みたいな人間になっていくこと
そういったことが果たして私たちの向かう先としていいのだろうか。

その先にある世界に憧れるより、
そのプロセスの中にある、葛藤や矛盾、エゴや不純など
真理に対する人間らしい不器用さの方にこそ尊き美しさがあるのではないだろうか。

 

 

あたかもその道こそが人間の進むべき成長の道だと言わんばかりの「悟り」であるが、
果たしてそうなのかという反骨を感じさせられながらも、1つの答えを見せずに
深く考えさせてくれる作品と「かぐや姫の物語」は仕上がっているのだ。

社会に対する反骨としてパンクの精神があるのならば、
この映画はもっと大きな抽象度の悟りに向けて掲げられた
反骨と言っていいのではないかと思うのだ。

しかも、この作品が
原作(平安時代初期に成立された竹取物語)と何も変わらないことこそが
一番驚くべきところなのだ。

私たちはこの「竹取物語」という作品から
何を学ぶべきなのだろうか。
いったいこの作品には人類に対するどんなメッセージがあるのだろうか。


 なぜ生きる。
 どう生きる。
 そして、
 どこに向かって生きるのか。

 

皆さんのそんなことを考えるきっかけと
この「かぐや姫の物語」がなるはずだと思います。

 

 

この涙が意味するものはなんだと思いますか?

皆さんも是非本編をご覧になってください。

 

マジで株式会社  代表取締役

アートと経営をかけ算した企業のかたち。そして人間の意識フェーズと時代の関係性。AI時代の到来に向けて「ヒューマニベート」という独自の視点から切り込んだ先見的活動と孤独を愛する。理想主義でも現実主義でもない、我々は理想現実主義であるべきだ。そうは問屋が許さねえ。速読より遅読派。遅読の方法はお問い合わせください。フォーカスすることこそが価値を生みだす。2時間の映画で1年間分の学びを生成します。歩く精神と時の部屋。「私たちはどこに向かうのか」という究極の問いに対して「私たちは内側に向かう」と自信をもってお答えします。サプライズベースに生み出すクリエイティブプロセスで発生する愛のビックバンメカニズムを研究し続けて20年になります。デザイナーを極めた先はディレクターではなく、ダーマ神殿でデザイナーからイノベーターへと転職するべきなのです。嫌いな物はおばあちゃんのかかとみたいな食べ物。例えるなら干し柿です。よろしくお願いいたします。

プロフィールアイコンは、勇気をもって魔物に立ち向かい今まさに意を決して飛びかかり「えいやーっ」と奇声を発しているその瞬間を捉えた状態であり、「えいやーっ」という台詞の吹き出しの中で様々なことを話しているのだと思ってください。そう、すべては一瞬のうちに行われ儚く過ぎ去っていくのです。 尊きすべてに感謝。 喉元過ぎれば熱さを忘れて育ってきました。身分不相応が大得意な小5病。

ぷっちょんぺろりんちょん。